法然さん以前の浄土教と法然さん以後の浄土教の
法然さん以前の浄土教と法然さん以後の浄土教の違い、特色を教えて下さい。
単純...法然さん以前の浄土教と法然さん以後の浄土教の違い、特色を教えて下さい。
単純に貴族から庶民へという流れで良いのでしょうか?
ご存じの方、宜しくお願いします。日本の浄土教は、元興寺の智光曼荼羅や當麻寺の當麻曼荼羅の存在を考えると、少なくとも奈良時代に遡ることができます。
(聖徳太子のいう天寿国が極楽浄土を指すとする説もあり、さらに遡ることができるかもしれません。)
当時は、僧侶の立場からは自らの往生浄土のための行であり、貴族の立場からは死者供養的な色合いが強かったと思います。
平安時代になると僧侶の修行として「観想念仏」(阿弥陀仏に見(まみ)える神秘体験)が盛んに行われました。
また源信和尚(恵心僧都)は『往生要集』を著し、そして浄土往生を願う「二十五三昧会」を結社しましたが、この中には俗人(貴族)も含まれており、また源信和尚自身も「頑魯の者」と名のるなど後の法然上人や親鸞聖人の「悪人」につながる萌芽が見られます。
その後、末法到来により貴族は阿弥陀堂(平等院等)を造り自らの往生浄土を願うということもなされました。
もっともこの点については浄土教の要素である念仏を欠きます。
さて法然上人が浄土宗開宗の根拠とした文言は、善導大師『観経疏(散善義)』の「一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざるは、これを『正定の業』と名づく、かの仏願に順ずるがゆえに」です。
ここで重要なのは、それまでは「称名念仏」(「南無阿弥陀仏」と称える)は「観想念仏」より程度が低い、つまり「観想念仏」する能力がない者が行う行であるという常識を覆した点です。
つまり『無量寿経』第十八願により、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えることこそが仏の願い=本願であるというのです。
これにより浄土教が厳しい修行に耐えられる僧侶のための教えから、俗人(庶民だけではない)のための教えに転化されたといえます。
また一方で死者供養から全ての人が救われる教えに転化するされたと見ることも可能でしょう。
800字では意を尽くすことができませんが。市聖空也さん、私度僧、藤原道長など、ここの流れがどうも判りづらくて・・。
字足らずな質問申し訳ありません。
貴族、庶民に弘まり、法然さんで口で唱える念仏の価値が上がったのですね。
皆様有難うございました。