平和とは戦い


平和とは戦いを避けることによって保たれるもの?

他国に領土が奪われても、国民が拉致されても、銃殺されても、どこまでも戦いを避けることによって平和は保たれるものなのでしょうか?

どれほど侮辱され、見下され、金品を要求されても、あくまでも戦いを避け、笑顔でそれに応じることが、本当に平和を守ることなのでしょうか?

他国に従属を強いられ、主権を奪われ、自由を奪われても、尊厳を奪われても、戦わないことが平和ですか?

中国瀋陽の領事館亡命事件の時も、中国は明らかに国際法(領事関係に関するウィーン条約)に違反していたにも関わらず、日本政府は抗議ができなくて、中国政府も一切、罪を認めず謝罪しませんでした。

 


戦後の日本の歩みを見ていると、常に他国の顔色を伺って、譲歩して謝罪して、お金を出すだけで、何があっても戦いを避けることこそが平和を守ることだと勘違いしているような気がします。

 

本当の平和とは、時には断固戦ってでも、国家・国民の主権と自由と尊厳を守って勝ち得るものなのではないでしょうか?中国瀋陽の領事館亡命事件は、質問全体の中での一例であってすべてを象徴しているわけではありません。


中国に関して補足するなら、1968年、国連アジア極東経済委員会の協力の下に海底を学術調査し、海底調査の結果、「東シナ海の大陸棚には、石油資源が埋蔵されている可能性がある」ことが指摘された途端に、突然、領有権を主張し始めた不自然さがあります。

さらに、総額約3兆円以上の対中ODAもまったく感謝されていませんね。

あなたの意見は正しいです。

日本人の中には、ガンジーキング牧師を、徹底した非暴力主義を実践した” 平和主義者 ”であると勘違いする人がいますが、それは間違っています。

彼らは戦士です。

「英国のインド弾圧」「白人優越主義」という既成概念に対して真っ向から"NO"と言い、”西欧(白人)優越的な社会”を大混乱させたのですから。

彼らは、平和を確立するために、”非暴力”という武器によって”偏見や差別、弾圧”と戦ったのです。

戦いを避ける状態を平和と信じる人は、現在の状態が”平和”である、という虚構を前提にしているのです。

しかし実際は、社会は多くの問題を内包しており、とても平和とは言えない状態です。

平和を構築する上で重要なのは、現在抱える問題をいかに”平和的な手段”(話し合いや第三者による調停など)によって戦うのかということです。

ここを勘違いしている人が多いのです。

日本で平和学という学問が定着していないので、こういった誤った”平和”の考え方が根付いてしまうのも仕方ないのかもしれません。

余談ですが、確かこの質問内容に似たテーマがは慶應大学法学部の英語の問題で出題されてましたねぇ。

 

補足は、「オフェンシブリアリズム」という国際関係学の考え方でよく分かります。

「国際社会は無政府状態であるり、国家は(1)国益を優先して合理的に行動する(2)”存在すること”を目的としている(3)攻撃的な軍事力を少なからず備えている(4)他の国家の意図について確証を持つことが出来ない」 また「各国家は将来的に国家が生存に必要な力の総量は予測できない。

それを最も担保しうるのは現在において”覇権”を握ることであり、その結果、国家は他国が”覇権”を獲得しようとする可能性を排除しようとする。

ゆえに国家は互いに恐れあっている。

」だから、中国は補足内容のような行動に出たのです。

これからすれば、日本の憲法9条など理想論の塊です。

完全武装したした軍人が交戦する戦場(現国際社会)で、安全ロックのかかった銃を持っている民間人(日本)を想像すれば、ことの重大さが理解できるでしょう。

ガンジーキング牧師のような偉大な非暴力主義者は、戦後の日本のようにとことん争いから逃げ回っていたのではなく、体を張って命を張って暴力と戦い、自由と権利を勝ち得たのだということを多くの日本人は忘れていると思います。